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村山浅間神社の大日堂内部
村山浅間神社の大日堂は、土日に大日如来坐像などの仏像を見ることが出来ます。
木造大日如来坐像(金剛界)
木造大日如来坐像(金剛界) 寄木造り 1478年(天明10年)
大日堂の本尊。像内部の墨書により、富士山興法寺の大鏡坊らを願主として、渡邊源之行忠と息子が作成したことが分ります。 ガッチリした体つきやうねるような衣の流れ方に室町時代の仏像の特徴が表れています。
木造大日如来坐像(胎蔵界)
木造大日如来坐像(胎蔵界) 一木割矧造(わりはぎづくり) 1259年(正嘉3年)
神仏習合の時代、村山浅間神社の御神体として祀られていたと言います。像内部の墨書により、覚尊を願主として、聖運が制作した事が分ります。
端正な顔立ちや自然な肉体表現に鎌倉時代の仏像の特徴を表す一方、腕飾りは古様で、膝が薄くアンバランスな点など13世紀半ばの制作年代に疑問を残します。
木造大日如来坐像(金剛界)
木造大日如来坐像(金剛界) 寄木造 室町時代末から桃山時代
丸みがある小作りな顔や、穏やかで平板な衣の線など、中世末期の仏像の特徴を表しています。複数の木材を組み合わせる寄せ木造りに、目に水晶を入れる玉眼という手法を使い、表面を漆で仕上げる中世以降の仏像の一般的な制作方法で作られています。
そのため素地で仕上げ、目は彫っただけの古い二体の大日如来坐像とは印象が違います。本来は違う御堂や寺院で安置されていたのかもしれません。
木造役行者像
木造役行者像 1608年(慶長13年)
役行者は奈良時代の人物で、修験道の開祖とされます。「日本霊異記」には伊豆に流刑となった役行者が夜な夜な富士山に登って修行していたと言う伝説も記され、富士山で修行する修験者たちにとって特別な存在でした。
そのため山内や関連社寺に祀られることがあります。本像は通例に従い右手に経巻、左手に錫杖を持ち、高下駄を履く老人の姿で表されています。
銅造不動明王像
銅造不動明王像 鋳銅 1417年(応永24年)
もともと富士山大宮・村山口登山道の岩屋不動に安置されていた不動明王像です。背中の銘文によると、1417年に「雲霧不動尊」として造立された事が分ります。この像は型を用いて銅を鋳造されています。堂々とした太めの体が室町時代らしい特徴を出しています。
木造不動明王像
木造不動明王像 寄木造 江戸時代
火炎を背負い右手に剣、左手に羂索(けんじゃく)を持ち、憤怒の表情を浮かべる不動明王です。端正な顔立ち、まとまりのある穏やかな体や衣の表情で江戸時代半ばの制作と思われます。明治初年の神仏分離令に伴う廃仏毀釈で山中から降ろされたものです。
銅像大日如来坐像
銅像大日如来坐像(胎蔵界) 鋳銅 室町時代末期から江戸時代初期
厨子(ずし)の中に入っているため、はっきりと撮影出来ていません。丸顔で、穏やかな衣文の表現などから江戸時代の制作であろうと推察されます。富士山内の御堂や山小屋では、銅や鉄の仏像が多く制作されています。
又、厨子にある墨書や富士講の講紋から富士講が奉納したものと分り、廃仏毀釈後に山中から降ろされたものと考えられます。
手前に並べられた複数の彫刻の首が無いのは、廃仏毀釈により首が取られたものと想像されます。