日本アルプス登山ルートガイド-核心部のルート案内
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村山浅間神社から村山古道で富士宮口六合目 

村山浅間神社から村山古道で富士宮口六合目登山ルート概要

登山ツアー情報

富士山登山ツアー

登山コース概要

東海道から村山古道の拠点となる村山浅間神社(富士山興法寺)へは、大宮の富士山本宮浅間大社に参拝し、同所の湧玉池で水垢離を行った後で、村山浅間神社へ向かうのが一般的でした。現在、大宮と村山間のルートがどこにあったかはっきりとした事は分かっていません。

東海道から大宮に入る道は、岩本から高原、黒田を経由するルートと吉原から伝法、久沢、天間、小泉を経由する二つのルートがありました。 一方で、吉原から富士山本宮浅間大社を経由せず、直接村山浅間神社へ向かう道もあり、現在でも道路沿いに「村山道」と石に刻まれた道標が7基残っています。 今回紹介するのは、村山浅間神社から大宮口新道と合流する新六合目までの区間です。

富士山が世界遺産として登録された理由として、富士山信仰があります。まさにこの村山は富士山信仰の発祥の地とも言える場所で、平安時代末期に山岳修行をした末代上人の流れをくむ人々が富士山興法寺を建立し、村山修験の拠点となり、富士山における修験道が発展したと言う点において、富士山世界文化遺産としての核心部と言っていい場所です。

しかし、江戸時代になると富士講の発展と共に北側の登山口である吉田口に人々が集まるようになります。更に宝永噴火によって壊滅的な被害を受け、次第に衰退していきます。決定的となったのは明治元年の神仏分離令に伴う廃仏毀釈運動です。それにより富士山興法寺は廃寺となり、村山浅間神社となります。それ以降、村山古道を登る人はほとんどいなくなり、荒廃していきます。境内に村山修験の歴史をとどめる大日堂が残っているのは不幸中の幸いと言えるでしょう。

平成に入り、富士宮市によって村山口登山道の調査が行われ、村山浅間神社(富士山興法寺)を登山口とする村山古道は、地元の富士山村山口登山道保存会によって復活し、歩けるようになっています。とは言え、多くの登山者が行き交う一般道とは違い、整備が不十分な場所もところ所に見受けられます。特に、富士裾野林道から北井久保林道へ至る区間は、大きく崩壊した所を登山道が付け替えられています。それまで付いていた赤札が残っているため、それに導かれてルートを外す危険があります。特に、下山で使う場合には更にルート間違いの危険が高まります。

札打場を超えた辺りから植林の作業道が数多く交差するため、目印となるテープを注意深く確認しながら進む必要があります。この場所も、下山時では極めルート間違いが起こりやすいと感じました。

そして吉原林道を超え、富士山麓山の村の直前で分りにくい場所があります。その後、森林限界を超える五合目まで大変分りやすいルートになっています。

村山古道は、富士宮口六合目で雲海荘の左手に登り上げています。しかし、ここから下山に使う場合には、村山古道下山口を示す指導標がありません。登山道入口が分らない場合には雲海荘のスタッフに聞いてください。親切に教えてくれるはずです。

村山古道全ルートに渡って数多くの赤テープが付けられています。しかし、今までに述べた様に、よく整備された一般道とは違います。赤テープが途切れたと思ったら、直ちに赤テープを見失った場所まで戻ってください。

※ 村山浅間神社と共に富士宮口六合目以上が富士山世界文化遺産に登録されています。

ここより山頂へは富士宮口ルートをご覧ください。

参考文献
富士山村山口登山道跡調査報告書 富士宮市立郷土資料館
村山浅間神社調査報告書 富士宮市教育委員会
富士山・村山古道を歩く 畠堀操八


村山浅間神社(富士山興法寺)に伝わる彫刻

1,村山浅間神社の大日堂内部

村山浅間神社の大日堂

村山浅間神社の大日堂は、土日に大日如来坐像などの仏像を見ることが出来ます。

2, 木造大日如来坐像(金剛界)

木造大日如来坐像(金剛界)

木造大日如来坐像(金剛界) 寄木造り 1478年(天明10年)
大日堂の本尊。像内部の墨書により、富士山興法寺の大鏡坊らを願主として、渡邊源之行忠と息子が作成したことが分ります。 ガッチリした体つきやうねるような衣の流れ方に室町時代の仏像の特徴が表れています。

3, 木造大日如来坐像(胎蔵界)

木造大日如来坐像(胎蔵界)

木造大日如来坐像(胎蔵界) 一木割矧造(わりはぎづくり) 1259年(正嘉3年)
神仏習合の時代、村山浅間神社の御神体として祀られていたと言います。像内部の墨書により、覚尊を願主として、聖運が制作した事が分ります。端正な顔立ちや自然な肉体表現に鎌倉時代の仏像の特徴を表す一方、腕飾りは古様で、膝が薄くアンバランスな点など13世紀半ばの制作年代に疑問を残します。

4, 木造大日如来坐像(金剛界)

木造大日如来像(金剛界)

木造大日如来坐像(金剛界) 寄木造 室町時代末から桃山時代
丸みがある小作りな顔や、穏やかで平板な衣の線など、中世末期の仏像の特徴を表しています。複数の木材を組み合わせる寄せ木造りに、目に水晶を入れる玉眼という手法を使い、表面を漆で仕上げる中世以降の仏像の一般的な制作方法で作られています。そのため素地で仕上げ、目は彫っただけの古い二体の大日如来坐像とは印象が違います。本来は違う御堂や寺院で安置されていたのかもしれません。

5, 木造役行者像

木造役行者像

木造役行者像 1608年(慶長13年)
役行者は奈良時代の人物で、修験道の開祖とされます。「日本霊異記」には伊豆に流刑となった役行者が夜な夜な富士山に登って修行していたと言う伝説も記され、富士山で修行する修験者たちにとって特別な存在でした。そのため山内や関連社寺に祀られることがあります。本像は通例に従い右手に経巻、左手に錫杖を持ち、高下駄を履く老人の姿で表されています。

6, 銅造不動明王像

銅造不動明王像

銅造不動明王像 鋳銅 1417年(応永24年)
もともと富士山大宮・村山口登山道の岩屋不動に安置されていた不動明王像です。背中の銘文によると、1417年に「雲霧不動尊」として造立された事が分ります。この像は型を用いて銅を鋳造されています。堂々とした太めの体が室町時代らしい特徴を出しています。

7, 木造不動明王像

木造不動明王像

木造不動明王像 寄木造 江戸時代
火炎を背負い右手に剣、左手に羂索(けんじゃく)を持ち、憤怒の表情を浮かべる不動明王です。端正な顔立ち、まとまりのある穏やかな体や衣の表情で江戸時代半ばの制作と思われます。明治初年の神仏分離令に伴う廃仏毀釈で山中から降ろされたものです。

8, 銅像大日如来坐像

銅像大日如来坐像

銅像大日如来坐像(胎蔵界) 鋳銅 室町時代末期から江戸時代初期
厨子(ずし)の中に入っているため、はっきりと撮影出来ていません。丸顔で、穏やかな衣文の表現などから江戸時代の制作であろうと推察されます。富士山内の御堂や山小屋では、銅や鉄の仏像が多く制作されています。又、厨子にある墨書や富士講の講紋から富士講が奉納したものと分り、廃仏毀釈後に山中から降ろされたものと考えられます。
手前に並べられた複数の彫刻の首が無いのは、廃仏毀釈により首が取られたものと想像されます。

堂内の掲示板より


村山浅間神社(富士山興法寺)の開山祭

1, 水垢離

水垢離

7月10日に村山浅間神社において行われる富士宮市の富士山開山祭。
※北側の吉田口では7月1日に開山祭が行われます。

村山浅間神社は、富士山の山岳信仰の発祥の地とも言える場所で、村山修験の本拠地として江戸時代まで栄えていました。京都聖護院門跡から修験者を招き、古式にのっとり水垢離が行われます。水垢離を行うことで罪や汚れを洗い落とし心身共に清いものにするために行われます。 当日は、修験者に従って富士根北中学の男子生徒がふんどし姿で禊を行います。

2, 復活した村山古道前で行われる開山式

復活した村山古道前で行われる富士山開山式

村山口登山道前において富士宮市長の開山の宣言と京都聖護院門跡の修験者によって表白、三条、心経、開山と神事が摂り行われます。村山古道は近年、地元の富士山村山口登山道保存会によって復活しています。

3, 護摩焚き神事

護摩焚き神事

煩悩や業を焼き払うために行われる護摩焚きは、富士山に登って修行を積んだ後に行われるのが普通です。煙が供物を天上に運ぶという言い伝えから天に対する感謝の意味を込めて行います。

4, 水垢離、護摩焚き神事動画




登山届提出

静岡県警察 しずおか電子申請サービスを利用して、登山計画書を提出することができます。
お問い合わせ
静岡県警察本部地域部地域課
静岡県静岡市葵区追手町9番6号
電話番号:054-271-0110

各種問い合わせ

富士宮市観光課 電話:0544-22-1155
社)富士宮市観光協会
電話:0544-27-5240




画像一覧

標高500m地点に建つ村山浅間神社は、14世紀には富士修験の中枢であった場所と考えられています。「本朝世紀」によると、久安年中(1145年から1150年)に、富士修験の成立に深く関わった末代上人は数百回と富士山に登り、富士山頂に大日寺を建てたとされています。その流れを汲む人々による村山修験の本拠地ということが出来ます。

村山浅間神社の西側に舗装道路が富士山に向かって走っています。この道を六道坂と言い、かつてこの地に大木戸が建てられ道者から山役銭を取って、登山手形を発行した場所です。そして、舗装道路の右手に「富士山表口真面之図」を写した案内板(登山道の案内)と「富士山」と刻まれた石碑が置かれています。

六道坂横の駐車場から村山古道が始まります。「村山口」と刻まれた石碑の建つ登山口には、綺麗に並べられた石畳の道が伸びています。この石畳は、富士宮市立富士根北中学校や富士山完登プロジェクトのメンバーらによって手作業で石を敷いた「石畳一石運動」によるものです。

石畳の道は約200mで終わり、再び六道坂の舗装道路に出ます。少しの区間、民家の中の舗装道路を歩き、再び、石畳の道を抜けて行きます。

民家が無くなり、植林地に入ると鎖で車止めがされた左手に高さ50cmほどの「馬頭観世音」が置かれています。「昭和8年 上原信郎建立」と読み取れます。明治元年の神仏分離令により登山者はほとんどいなくなりましたが、明治中期から木材搬出の木馬道が作られ、馬の供養のために建てられた様です。

馬頭観世音から200メートル程林道を進むと登山道となります。藪っぽい草地の中を登って行きます。

送電線の下を通り抜け、ヒノキの植林地に入って行きます。溝状に浸食された登山道にヒノキが倒れ込み、その下をくぐり抜けていかなければなりません。雪解け水や大雨によって浸食されたもので、この先こういった場所が随所に出てきます。

標高750メートル地点の舗装された富士裾野林道を横断します。標高1000mより上は国有林、下は民有林となっています。現在、民有林にはヒノキやスギが植林され全く展望がありませんが、「草山三里」と呼ばれた江戸時代までは遠く駿河湾や南アルプスが望めたと言います。

侵食され深くえぐられた溝状の登山道を登ります。

少し歩きやすいと登山道になりますが、この先から非常に分りにくい道となります。

侵食され深くえぐられた溝状の中を進みます。侵食がきつい所で左側に登山道が付け替えられています。誘導するピンクのリボンがありますが、付け替えられる前のリボンも残っているため、正しいルートの判断が難しい所です。特に下山時に使用する場合には更に分りにくくなります。

ルートファインディングの難しい溝状の道を過ぎ、東側に90°折れ、植林地内の明瞭な道を真直ぐに進むと舗装された北井久保林道に出ます。

北井久保林道から程なくして標高840m地点の村山修験の最初の遺跡である札打場に着きます。幹回り約3.5mのケヤキの大木にしめ縄がされ木札が掛かっています。かつて、入峰する修験者が札打ちしましたが、現在では地元の中学生が集団登山の際、入学祈願を書いた札が吊るされていました。

札打場を過ぎると比較的明瞭な登山道となりますが、明るい植林地内に入ると、数多くの植林のための作業道が交差し、登山道との区別に神経を使います。特に、下山時には作業道に誘導されやすいので要注意です。

標高1000m地点を東西に走る富士山麓線の鋪装道路に出ます。車道を右手に50mほど進んだ所が村山古道入口です。

村山古道入口の左脇から天照教社奥之院参道が200mほど伸びています。

天照教社奥之院。写真には写っていませんが、背後に富士山が聳え、まさに遥拝する場所にあります。

天照教富士山本社の本殿(正面)と社務所(左手)。江戸桜田門外で井伊直弼が水戸浪士によって殺害される桜田事変に関係した徳田寛豊が、1879年(明治12年)、伊勢神宮から分霊して開いたものです。

天照教富士山本社のトイレ。お世辞にも綺麗とは言えませんが、無料です。

天照教富士山本社の境内から富士山麓線の村山古道入口に戻ります。左手の鎖は、天照教奥之院へ進む山道です。その右手から森の中に入って行きます。

ヒノキの植林地の窪地の中を進みます。所々に倒木があり、その下をくぐり抜けていきます。

薄暗い植林地から樹相が落葉広葉樹と変わり、日が差し込み傾斜のなだらかな心地よい森になってきます。

吉原林道へ出ました。林道を10mほど右に進み、登山道を進むと深い溝状の道へと変わります。ちなみに左手には浄水施設があります。

吉原林道から少しの区間歩きやすい道ですが、すぐに深い溝状の道へと変わります。

深い溝状の道となり、つり橋の下をくぐった先でどん詰まりとなります。現在の正しいルートは、つり橋の左手側に上がり、そこから溝の左手側を進むようになっています。ここが分りにくい場所です。このつり橋は富士山麓山の村の管理棟と生活棟を結ぶ連絡路です。

吊橋の左手側に上がった所です。左手側にピンクリボンが架けられているのが見えるはずです。ただしこのルートは、最近になって付け替えられたルートで、リボンが付けられていますが踏み跡が薄く、正規のルートなのか疑わしくなってしまうはずです。

つり橋をくぐり溝状の道を少し進んだ所でどん詰まりとなります。溝を右手側からよじ登って進むことが出来ますが、この場所はやや危険なため、つり橋の所でルートが付け替えられました。

ブナやシナノキなどが美しい緑陰広場に出ます。この左手に富士山麓山の村管理棟があり、水の補給やトイレを使用することが出来ます。登山道は、ベンチやテーブルのある右手側を少し進み、溝状の沢(日沢)を渡って右手側に進みます。

富士山麓山の村管理棟。静岡県が運営する自然体験を学習する教育施設で、管理棟の他、緑陰広場の右手側(東側)にはロッジ風の生活棟があります。

富士山麓山の村の水道。登山者も無料で使用する事が出来ます。

富士山麓山の村の営業期間中(4月1日〜10月31日)には自動販売機が稼働しています。

富士山麓山の村の公衆トイレ。管理棟の職員に一声掛けて水洗トイレを使用しでください。

富士山麓山の村の管理棟から緑陰広場に戻り、浅い涸沢(日沢)を渡って登山道へ入ります。

標高1135m地点の二つ目の馬頭観世音です。裏には「世話人木伏藤作 昭和三年十月」と刻印されています。この辺りは平坦な道がしばらく続き、ブナ、ミズナラなどの落葉広葉樹の林が広がり、木々の間から差し込む木漏れ日が心を和ませてくれます。

村山浅間神社(富士山興法寺)と深い繋がりがある京都聖護院門跡の修験者達が、ほら貝を吹きながら山頂を目指して登っていました。かつて隆盛を誇った富士修験の息吹を感じる一瞬です。

大淵林道に出合います。砂利道を左手方向に約1km 進むと西臼塚駐車場です。

大淵林道から日沢を渡って、檜の植林の中に V 字状に刻まれた登山道を進みます。

大淵林道から約20分登った開けた場所にある中宮八幡堂跡。明治時代の終わり頃まで茅葺き屋根の社屋、馬立小屋、金剛杖小屋などが存在していましたが、村山修験の衰微により倒壊してしまいました。又、この場所は「中宮馬返し」とも呼ばれ、ここより先は馬で登ることを許されませんでした。

富士山中宮八幡堂は、天文年中(1400年代)今川氏輝によって創建され、八幡大菩薩( 応仁天皇)を祭神として祀っています。「太郎坊権現 妙法蓮華教」と刻まれた石塔一対があり、現在の祠は、1997年(平成9年)に篤志家の協力で、創建されたものです。毎年、10月の第4日曜日に村山浅間神社の宮司さんに来てもらい祭典を行っています。

中宮八幡堂東側から踏み跡が伸びています。日沢を30m上流に登った左岸に水神の祠と八大竜王と刻まれた石造物があります。

中宮八幡堂から日沢を渡り、200mほど進んだ所にある「釼王子・牛ヶ王子」又は「女人堂」跡と考えられます。女性にとって女人禁制であった富士登山の最終地点で、ここで寝泊まりしたり遥拝したものと考えられています。

標高1350メートル地点の富士山スカイライン7.8kmポスト付近に出ます。ここを横断し、林床にスズタケの茂るコメツガ林に入ります。この辺りは富士山スカイラインの周遊道路区間(通称・横道)で、マイカー規制期間中でも自由に通行することが出来ます。

登るにつれ林床をびっしりと苔が覆った岩庭となります。

やや滑りやすい苔の斜面を登ると富士山スカイラインの10.8kmポスト付近に出ます。

10.8kmポスト近くを横断します。この辺りは富士山スカイラインの山岳道路区間(通称・縦道)で、マイカー規制期間中は、旧料金所ゲートから進入が出来なくなっています。

林床にはスズタケが密生して生え、ブナの巨木が混じる緩斜面を登ります。

富静岡森林管理署が巡視路として整備した富士山自然休養林歩道のガラン沢・高鉢コースと交差します。左手に進めば15分ほどで高鉢駐車場です。

ガラン沢・高鉢コース分岐から2分ほど登った右手に「矢立・新小屋跡」と思われる平坦地があります。瀬戸物製の茶碗のかけらや炭、針金などが発見されたことから、作業小屋として戦後の一時期に作られたものと考えられます。

日沢沿いの左岸を登り、右手に岩屋不動跡への道が分岐します。

標高1860メートル地点の瀧本・笹垢離跡と思われる広さ50平方メートルほどの平坦地に飛び出します。そこには4体の石造物が置かれています。一番右端には首の無い地蔵、その左に不動明王像、首の代わりに石が置かれた地蔵、左端には首が復元された地蔵です。これらの所作は、明治元年に発布された神仏分離令に伴う廃仏毀釈によるものです。

右から二番目の不動明王像は、文化7年(1810年)建立とあります。しかし、無残にも首の部が袈裟懸けでスパッと切られ、それを後世になって接着剤でつなぎ合わされています。明治7年(1774年)7月26日、静岡県の役人・宮司・神官・土木作業員などによって登山道に置かれていた仏像の首をはねたり、麓に降ろされたりしました。

大規模な倒木帯が広がっています。特に1996年(平成8年)9月の台風17号により甚大な被害を受けた所です。

更に上部の倒木帯では、更にその規模を増し、このルートの唯一の展望地を造り出しています。晴れていれば富士山頂部が見えるはずです。辺り一面にヒヨドリソウが白い花を付ています。

登山道は、日沢に近づき、その左岸を登るようになります。そして、この少し上で東側から西へ日沢を渡る地点が「横渡」と呼ばれる場所です。

横渡で日沢の右岸に出ると針葉樹林帯の急坂になります。登山道を示すピンクテープも豊富にあり、ルートを外す心配はありません。

モミの木が広範囲に倒れています。1996年9月の台風17号によるものと2005年8月の台風11号による倒木です。

倒木の下をくぐり抜けたり、倒木の上を跨いだりしながら通過していきます。大きなザックを背負っていれば引っかかりそうです。

標高2230メートル地点の一ノ木小屋跡。石段の左手上に壊れた鉄のヤカンが置かれています。「室大日堂・木戸室・茶屋室」などと呼ばれていた場所で、中宮八幡堂と並ぶ規模を持つ建物跡です。

この場所で登山手形を改めたという一ノ木小屋は、広さ200平方メートルほどの人工の広場で、敷地内には石組が残っています。室大日堂には修験道の開祖とされる役行者と大日如来像が祀られていたといいます。又、富士山頂に大日寺を建てた末代上人は、この場所に往生寺を建てたとも言わています。

宝永遊歩道分岐。左手方向に進めば10分ほどで富士山スカイラインの富士宮口5合目の旋回道路に出ます。右手に進めば宝永第二火口縁に至ります。宝永遊歩道に沿ってロープが張られて村山古道に間違って進入しないようになっています。村山古道を下山する人のために村山古道下山口の案内表示がなされています。

ダケカンバ帯を登ります。

ダケカンバ帯を抜けると森林限界を超え、ハイマツ帯になります。赤札やペンキマークなどはほとんど無く、踏み跡を辿ることになります。下山時にはルートがやや分りにくい所です。

宝永山荘と雲海荘の建物が見えて来ました。登山道は、雲海荘の左手側に飛び出すように付いています。

雲海荘の手前に出ました。写真で示すように富士宮口5合目から雲海荘にかけての登山道にはロープが張られて道間違いを防ぐようになっています。しかし、村山古道下山口を示す道標はどこにもありません。下山口が分らない場合には雲海荘のスタッフに尋ねてください。

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富士宮口登山ルート地図


富士宮登山口ルート詳細情報

ルート 村山浅間神社(標高500)⇒天照教社(標高1,000m)⇒富士山麓山の村(標高1,080m)⇒中宮八幡堂(標高1,275m)⇒瀧本不動・笹垢離小屋跡(標高1,860m)⇒一ノ木戸小屋跡(標高2,230m)⇒富士宮口六合目(標高2,490m)
コースタイム 登山:村山浅間神社⇒富士宮口六合目 7時間50分
下山:富士宮口六合目⇒村山浅間神社 6時間10分
駐車場 村山浅間神社 8台駐車可能、近くのスポーツビレッジ村山ジャンボ駐車場約100台 
トイレ 天照教社、富士山麓山の村、雲海荘、宝永山荘
核心部 特に難しい所はありません
難易度 [登山道(一般道)を10段階で表示 特に鎖場の岩登り] 1
飲料水必要量 5Kgの荷物を背負う場合
体重45kgの人:3.50リットル、体重60kgの人:4.55リットル、体重75kgの人:5.60リットル
消費カロリー 5Kgの荷物を背負う場合
体重45kgの人:6.510Kcal、体重60kgの人:8.463Kcal、体重75kgの人:10.416Kcal
燃焼脂肪量 5Kgの荷物を背負う場合のダイエット効果
体重45kgの人:0.930kg、体重60kgの人:1.209kg、体重75kgの人:1.488kg
標高差 距離 13.4km 最大標高差 2011m 平均斜度 全体:15% 上り:15% 下り:0% 獲得標高 上り:1978m 下り:0m
山小屋 六合目 雲海荘宝永山荘
登山口へのアクセス JR身延線富士宮駅バス亭の4番乗り場で粟倉万野線に乗車、万野団地入口バス停で下車(約9分・運賃250円)、バス停から徒歩約1時間。


次はどこの山へ行こうかな。行きたい山がすぐに見つかる。

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