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北口本宮冨士浅間神社から吉田口登山道概要
登山コース概要
富士山信仰のメッカとも言える「北口本宮冨士浅間神社」から吉田口登山道は始まります。この富士吉田登山道は、富士山世界文化遺産の構成要素の一つになっています。
噴火活動が活発化した貞観6年(867年)頃から富士山を「浅間大神(あさまのおおかみ)」と呼ぶようになります。
そして、鎮火祈願を目的として「アサマの神」を祀る「富士浅間神社」が出来ることになります。
富士山は、修験の行場から衆人の登拝の山へとなっていきます。江戸時代になると富士講が結成され、関東一円から多くの道者が訪れてきます。その受け入れ先として富士吉田市には御師の宿坊が70余り軒を連ねたといます。
江戸から富士吉田市まで来るのに約3日かかり、登山にも最低2日を要する長旅のため、現在とは違い、かなりの資金が必要だったようです。そのため、富士講を作り、資金を出資し、選ばれた人のみが登拝するという仕組みが出来上がりました。
浅間神社から中の茶屋を経て馬返しまでは、草山三里と呼ばれ、ほぼ真直ぐな緩い道が続きます。現在では舗装道路になっています。
馬返しから先は、富士登拝の数々の遺構が残されています。平安時代の歴史書「本朝世紀」には、久安5年(1149年)に、末代僧侶が富士山頂に大日如来を本尊とする大日寺を建てたとする記述があります。
その後、山頂及び吉田口登山道には仏像・神像など80体以上が残り、富士山信仰隆盛の一端を知ることが出来ます。
5合目辺りに中宮一之鳥居があって、その上が中宮と呼ばれる場所で、「中宮三社」が祀られていたと言います。木山と焼山の境界に当たるため、「天地境」とも呼ばれていました。この地に中宮役場が建てられ役銭場として入山料を徴収していました。
その後、麓で山銭料を一括して納めるようになると、その証明書の「登山切手」が発行され、それを確認する場所になりました。
5合目には冬季営業している佐藤小屋があります。テント場が併設され、1年を通して富士山をアタックする登山者には大変ありがたい存在です。
佐藤小屋と六合目との間に日蓮上人縁の地(姥ヶ懐の覆屋、六角堂)があります。
馬返しから佐藤小屋までは約3時間のコースタイムを要します。ここから山頂を目指してもよし、富士スバルラインの終点近くから始まる御中道へ足を伸ばしても面白いでしょう。
参考文献:富士山叢書 富士を登る 富士吉田市歴史民俗博物館
登山届提出
山梨県警察
お問い合わせ:山梨県警察本部地域課
住所:〒400-8586 甲府市丸の内1−6−1
電話番号:055(221)0110(代表)郵送、電子メール、ファックスなので提出可能です。
各種お問い合わせ
五合目総合管理センター
開設期間5月〜10月、富士山保全協力金受付所併設、1人1000円の入山料を徴収しています。 電話:0555-72-1477
富士ビジターセンター 電話:0555-72-0259
富士吉田観光振興サービス 電話:0555-21-1000
富士吉田市富士山課 電話:0555-22-1111
富士の伝説と霊山登拝の歴史
1.木花開耶姫
【木花開耶姫像】
日本書紀に木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)が登場します。富士山の神様で女神です。金の冠を被り赤い裳をまとい雲に乗って富士山頂に立った想像上の小さな像が江戸時代に作られました。
この神様は「安産と防火」にご利益があり、更には、芸能、家庭円満、酒造り、災難消除、農漁業守護、登山安全など様々なことにご利益があるとして江戸時代の商人に大変人気だったとか。
北口本宮冨士浅間神社をはじめ、日本全国の1300を超える浅間神社の御祭神になっています。
ふじさんミュージアム蔵
2.御師宿坊・小佐野家
【御師宿坊・小佐野家】
上吉田に残る御師宿坊・小佐野家住宅と同家の古図を元に復元されたものです。
堀端屋と呼ばれる社家で、「文久辛年(1861年)9月吉辰良辰」の記がある家系図が存在して、昭和50年に国の重要文化財に指定されました。
多くの登拝者(富士道者)が寝泊まりする畳部屋の一番奥に祭壇が設けられ、富士山登拝の前に御師による祈願が行われました。
富士御師とも呼ばれた御師の職分とは、
参詣者に宿泊所や各種案内の世話をするばかりではなく、祈祷・お祓い・占いなど宗教者としての役割も果たしていました。
3.富士講の歴史 「食行身禄」の入定
【食行身禄・北行鏡月・仙行伸月像】
食行身禄像(1671〜1733)の前方に「三十一日ノ巻」を持つ北行鏡月(田辺十郎右衛門)とその息子で、茶碗を持つ仙行伸月(田辺利兵衛)の像です。
食行身禄は、富士登山を45回、御中道を3回行い、富士登山の隆盛の立て役者となった人物です。彼は吉田口を修行の地とし、八合目で水売りをしていた北行鏡月が身禄の弟子になります。八合目元祖室(がんそむろ)の隣の鳥居をくぐりそのまま階段を上がると烏帽子岩神社が祀られています。即身仏となった身禄派の祖・「食行身禄」が祀られている神社です。
食行身禄は、烏帽子岩の陰に小さな厨子を作り、一日に雪一椀だけを口にする断食修行に入り、1ヶ月後の7月13日に入定したといいます。1732年(享保17年)に始まった享保の大飢饉で餓死する人が続出します。それを嘆いた身禄は、富士山において自らの命に代え、良き世の到来を願ったのです。その様子を弟子の北行鏡月に書かせたのが「三十一日ノ巻」です。
食行身禄が富士山で入定したというニュースは江戸の町にたちまち広がったといいます。金銭欲を持たず、権力に媚びない食行身禄の姿に江戸庶民は称賛の声を送り、富士講ブームに火が付いたといいます。
ふじさんミュージアム蔵
画像一覧
富士吉田市の富士パノラマライン(旧鎌倉往還 現国道138号)沿いに鎮座する北口本宮冨士浅間神社の裏手の鳥居をくぐり吉田口登山道は始まります。この神社は、富士山世界遺産の25ある構成資産の一つです。
登山道で最初の茶屋が中の茶屋です。浅間神社と馬返しのちょうど中間に当たるため、この名前が付いたとされています。ここの地名を「遊境」と呼ぶことから「遊境小屋」とも呼ばれていました。往時は船津胎内や吉田胎内へ行く道の起点だったため、大変な賑わいを見せたといいます。
馬返しまで舗装道路が伸び、期間限定でバスも来ています。運行期間は4月第2土曜日から11月3日の間土休日のみ運行。ただし7月第1土曜日から8月31日は毎日運行。お問い合わせは富士急山梨ハイヤー0555-22-1800。
この馬返しには、江戸時代、4軒の山小屋(茶屋)が存在していました。現在は、明大山荘・馬返し大文司屋と書かれた小屋が残るのみです。富士山は麓から頂上までの間が3区分され、それぞれ草山・木山・焼山と呼ばれていました。古来からここより先は木山となり富士山の霊域として認識されていました。
馬返し敷地内上部の石造鳥居と二体の猿像。「富士山湧出の日」という伝説に、一夜にして富士山が湧き出たというのがあります。その年が庚申(かのえさる)の年であったことから「猿」が富士山の使いと考えられていたようです。庚申は60年に一度巡る「御縁年」とされ、この年に富士に登るとよりご利益があるとされていました。
鳥居をくぐった所にある富士山禊所跡。古来よりここから先は富士山の聖域とされ、道者はここでお祓いを受け、身を清めてから山頂目を指しました。禊所の成立は、大正年間(1911年から25年)で、旧道のど真ん中に建っていました。その時点で、すでに新登山道が禊所の左手側に平行して作られていました。
吉田口登山道は富士山世界遺産の構成資産の一つになっています。前述したように馬返しから一合目までの登山道は大正以降に付け替えられたものです。右手側に旧道は付いていますが、所々壊れた場所もあり、現在は通行禁止です。
標高1520mの一合目に建つ鈴原社。かつては「大日社」と呼ばれ、浅間明神の本地物とされる大日如来像を祀っていました。「甲斐国志」では富士山の仏は大日如来であることを参拝者に知らしめるためにこの一合目に置かれたと記されています。又、周辺には多くの富士講碑が残されています。
多数の大きな石が敷き詰められた周りを木枠で囲んだ桝状の物(手前の構造物)が目に付きます。これは上から流れてくる雨水を浸透させるための「浸透桝」です。これにより登山道の侵食がかなり防げます。又、石畳や木製の土留めがしっかりと整備されています。
標高1700mの二合目の御室浅間神社拝殿跡。富士山の神である浅間明神(木花咲耶姫)を祀った神社で、富士山中で最初に建設された神社です。古くは北室・室ノ宮と呼ばれていました。河口湖南岸の勝山村(現富士河口町)の御室浅間神社里宮の山宮に当たります。
御室浅間神社拝裏の小祠。昭和47年(1972年)に本殿は河口湖の北側に建つ里宮の境内に移築されています。御室浅間神社里宮は、富士山世界遺産の構成資産の一つです。北口本宮冨士浅間神社を「下浅間」と呼ぶのに対して、この社を「上浅間」とも呼んでいました。江戸時代までは、この2合目から上は女人禁制の領域でした。
標高1840mの三合目。弁財天像が祀られた見晴茶屋跡(左手側)とはちみつ屋跡(右手側)。展望が良いこの場所で昼食を取る事が多かったため三合目は「中食堂」と呼ばれたり、江戸時代中期以前は、三軒の茶屋があったことから「三軒茶屋」と呼ばれることもありました。傍らに道了・秋葉・飯綱の三神を祀った三社宮がありました。
大黒小屋跡から15分で4合5勺目の御座石に到着します。神が寄り付く岩という意味があり、かつてこの岩の上に御座石浅間の浅間明神と日本武尊の小祠が祀られてていたと言います。戦国時代までは女性がここまで登る事が許されていたようですが、江戸時代になると「女人禅定の追い立場」とされ、2合目以上が女人禁制とされました。
御座石の隣には5合目焼印所・宿泊・ご休憩所とある看板の架けられた建物があります。江戸時代において2合目までとされた女性の結界も富士山の御縁年(60年に一度の庚申年)には、この地まで登ることが許されていました。
佐藤小屋から富士山頂方面を望む。6合目の落石防護柵の構造物が見えます。この付近は木山と焼山の境にあり、山岳信仰上重要な拠点であったため、体力的に山頂まで登山が出来ない信者のために遥拝所が設けられていました。
六角堂から50mほど入った所に茅葺の小屋が組まれています。「姥ヶ懐(うばがふところ)」の覆屋です。鍵が架けられ室内には入れませんが、隙間からのぞくと中は洞窟状になっています。そこで日蓮が100日間の修行を行ったと伝えられています。
六角堂の直ぐ上の高台から富士山頂を望む。六合目から山頂へは吉田口のページをご覧ください。
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北口本宮冨士浅間神社から吉田口登山道ルート地図
北口本宮冨士浅間神社から吉田口登山道基本情報
ルート | 5月4日 北口本宮冨士浅間神社(標高864m)⇒馬返し(標高1,440m)⇒一合目鈴原社(標高1,520m)⇒二合目御室浅間神社拝殿跡(標高1,700m)⇒三合目三軒茶屋社(標高1,840m)⇒四合目大黒小屋跡(標高2,050m)⇒4合5勺目御座石(標高2,150m)⇒五合目佐藤小屋(標高2,230m)⇒六角堂( 標高2,300m) |
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コースタイム | 登山:馬返し⇒佐藤小屋⇒六角堂 3時間10分 下山:六角堂⇒馬返し 2時間30分 |
駐車場 | 北口本宮冨士浅間神社100台以上、馬返しに約40台。 |
トイレ | 北口本宮冨士浅間神社、中ノ茶屋、佐藤小屋、里見平星観荘 |
核心部 | 特に難しい所はありません |
難易度 | [登山道(一般道)を10段階で表示 特に鎖場の岩登り] 1 | 飲料水必要量 | 5Kgの荷物を背負う場合 体重45kgの人:1.43リットル、体重60kgの人:1.85リットル、体重75kgの人:2.28リットル |
消費カロリー | 5Kgの荷物を背負う場合 体重45kgの人:2.651Kcal、体重60kgの人:3.446Kcal、体重75kgの人:4.281Kcal |
燃焼脂肪量 | 5Kgの荷物を背負う場合のダイエット効果 体重45kgの人:0.379kg、体重60kgの人:0.492kg、体重75kgの人:0.606kg |
標高差 | 距離 12km 最大標高差 1440m 平均斜度 全体:12% 上り:11.8% 下り:0% 獲得標高 上り:1417m 下り:0m |
山小屋 | 五合目:佐藤小屋 六合目:里見平星観荘 |
登山口へのアクセス |
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