日本アルプス登山ルートガイド > 北アルプス > 御嶽山
木曽御嶽山登山ルート概要
噴火関連情報
二ノ池本館から撮影された噴火直後の映像
下の方から「ドドドド」という小さな振動のような地鳴りが聞こえてきて、山から「ドカン」と大きな噴煙が上がって、これはもうまずいと思って二ノ池本館へ向かって逃げた時の映像です。30分ほど経って小屋を出ると辺りが一変していたということです。灰色の火山灰が一面に降り積もり、ちょうど雨も降っていてべたべたする感じで足に火山灰が付いてしまったとコメントしています。
御嶽山は、噴火によって荒々しい姿に変化した剣ヶ峰山頂部が印象的です。
山体は、長い裾野を広げて長野県木曽郡木曽町・王滝村・三岳村・開田村と岐阜県下呂市・高山市にまたがりる壮大・優美な山容を見せる独立峰です 。
信仰の山である為、登山口から中腹にかけて霊神碑が林立し、登山道のいたるところに御嶽信仰に関わるものを目にします。木曽御嶽山は北アルプス最南端に位置していますが、北アルプスに含まれるかは明確な結論は出ていません。長野県と岐阜県との間にあり長い裾野が広がる壮大で優美な山容を見せています。
日本百名山にも選ばれている御嶽山は、「木曽の御嶽山」とも呼ばれ、一つの独立峰では日本最大の山域で、山頂部は東西1km、南北4kmに広がり、頂稜部には最高峰である剣ヶ峰(標高3,076m)を始め、摩利支天山(標高2,959m)、継子岳(標高2,859m)、アルマヤ天(標高2,897m)、継母岳(標高2,867m)などの峰々が外輪山を形成しています。
50万年前から活動が始まった円錐形コニーデ型火山の御嶽山は、一万年の眠りから覚め1979年10月28日に水蒸気爆発の噴火がありました。火山灰は西風に乗って150キロ離れた関東北部まで達したと言われていますが、噴火による溶岩の流出は無く、人的被害はありませんでした。その後、御嶽山の火山活動は沈静化し、八丁ダルミや地獄谷から時折噴煙が立ち上る程度です。
沈黙を守ってきた御嶽山ですが、2014年(平成26年)9月27日11時52分、突如として大噴火を起こし、山頂近くにいた登山者の内58人死亡、5人行方不明という大惨事を招くことになります。 その後、入山規制が敷かれ地域観光に大打撃を与えることになります。特に、おんたけ22240スキー場は、入山規制の対象エリアとなり、存続の危機に立たされることになりますが、2015年には入山規制対象エリアが狭められ通常営業が出来るようになります。
山頂には一の池から五の池までの五つの火口湖があり、その中でも標高2,905m地点にある二ノ池は日本最高所の火山湖で、 三ノ池は日本最深の高山湖と言われています。
登山コース案内
山頂部が広大な木曽の御嶽山。中央アルプス木曽駒ヶ岳山頂から写す
登山口は大滝口、黒沢口、開田口、日和田口、濁河温泉など、東面〜北面から登るルートがあり、どのコースから登っても危険個所は無く、登山初心者でも安心して登れる山です。
最も登山者の多いのは大滝口で、登山口の標高は全ルート中最も高く、高低差が少ないにもかかわらず、展望、眺望が優れているのが理由と思われます。
また、大きな駐車場や公衆トイレ、宿泊施設などが完備している上、季節限定でバスが運行されているためアクセスが良いことも人気の理由でしょう。
濁河温泉を登山口とする場合、五の池小屋まで全体として単調で変化に乏しいコースと言えるものの、濁河温泉の源泉かけ流しの宿は他の登山口に無い魅力です。
御岳ロープウェイ(黒沢口)を登山口とする場合、時期により御岳ロープウェイの始発が8:30分と遅いのが難点です。
出発が遅いと、山頂近くまで登る頃には、ガスで辺りは真っ白という事も覚悟しなければなりません。
御嶽山は山岳信仰の山でもあり、夏のシーズンには白装束に身をまとった御嶽教の信者達が全国から集まります。
登山届の提出
長野県のホームページで携帯やパソコンから出来ます。
岐阜県側からは岐阜県北アルプス山岳遭難対策協議会事務局のホームページから提出出来ます。
各種問い合わせ
王滝村役場 電話0264-48-2001
木曽町役場 電話0264-22-3000
下呂市役場 電話0576-24-2222
登山地図のスマホアプリ
山と高原地図のスマホアプリが昭文社から販売されています。月額版:料金月400円、通常版:地域1エリア500円。
噴火速報アプリ
日本気象株式会社が提供
お天気ナビゲータ(スマートフォン、形態、PC、メール) 噴火速報アラート(スマートフォンアプリ)
Yahoo!Japan が提供
Yahoo!防災速報
御嶽山山頂周辺の気温
山頂気温 | 1月 |
2月 |
3月 |
4月 |
5月 |
6月 |
7月 |
8月 |
9月 |
10月 |
11月 |
12月 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
最高気温 | -11.2 |
-10.4 |
-6.1 |
2.3 |
7.7 |
10.7 |
13.9 |
15.7 |
10.7 |
4.8 |
-1.2 |
-7.7 |
平均気温 | -15.6 |
-14.0 |
-11.7 |
-4.8 |
1.5 |
8.2 |
8.5 |
9.7 |
5.4 |
-1.5 |
-6.3 |
-12.5 |
最低気温 | -19.2 |
-20.5 |
-11.8 |
-10.3 |
-4.1 |
0.3 |
4.5 |
5.1 |
1.2 |
-2.4 |
-9.5 |
-14.4 |
御嶽山へ登るための装備と服装
用具・装備 | 1月 |
2月 |
3月 |
4月 |
5月 |
6月 |
7月 |
8月 |
9月 |
10月 |
11月 |
12月 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ヘルメット |
◎
|
◎ |
◎ |
◎ |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
◎ |
◎ |
ツェルト |
×
|
× |
× |
× |
○ |
○ |
△ |
△ |
△ |
○ |
◎ |
× | ストック | △ |
△ |
△ |
△ |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
○ |
△ |
スパッツ | ◎ |
◎ |
◎ |
◎ |
◎ |
○ |
× |
× |
× |
△ |
△ |
○ |
手袋 | ◎ |
◎ |
◎ |
◎ |
◎ |
○ |
△ |
△ |
△ |
○ |
◎ |
◎ |
サングラス | ◎ |
◎ |
◎ |
○ |
○ |
△ |
△ |
△ |
△ |
△ |
△ |
◎ |
軽アイゼン | × |
× |
× |
× |
△ |
△ |
× |
× |
× |
× |
× |
△ |
12本歯アイゼン | ◎ |
◎ |
◎ |
◎ |
◎ |
× |
× |
× |
× |
× |
× |
◎ |
ピッケル | ◎ |
◎ |
◎ |
◎ |
○ |
× |
× |
× |
× |
× |
× |
◎ |
テント | ◎ |
◎ |
◎ |
○ |
△ |
× |
× |
× |
× |
× |
× |
◎ |
ギア |
チェック |
|
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◎ |
登山地図 | □ |
◎ |
登山靴 | □ |
◎ |
上着(シャツ) 速乾性・透湿性の素材 | □ |
◎ |
ズボン 伸縮性・速乾性の素材 | □ |
◎ |
アンダーウェア 速乾性・保温性の素材 | □ |
◎ |
靴下 厚手のもの | □ |
◎ |
レインウェア 上下セパレートタイプ | □ |
◎ |
帽子 | □ |
◎ |
防寒着 季節に合わせて選択 | □ |
◎ |
日焼け止め | □ |
○ |
耳栓 | □ |
◎ |
飲料水 | □ |
○ |
カメラ | □ |
○ |
ティッシュペーパー | □ |
◎ |
救急薬品 | □ |
○ |
ビニール袋 | □ |
◎ |
保険証(コピー) | □ |
◎ |
ヘッドランプ | □ |
◎ |
バックパック | □ |
◎ |
パックカバー | □ |
◎ |
行動食 | □ |
名前の由来
室町時代の「御嶽神社文書」によると、かつて修験者達は、この山をとりわけ抜きん出た山として敬称を付して「王の御嶽(みたけ)」と呼んでいました。やがて「王嶽(おうだけ)」となり、後に「御嶽(おんたけ)」に転じたといいます。
民謡・木曽節で全国区に躍り出る
「木曽のナア〜、中乗サン・・・・・」の歌い出しで誰しもが知る「木曽節」は、室町時代の『閑吟集』に木曽踊りとして古くから親しまれてきたとあります。
御嶽山の麓に広がる広大な森林は、木曽桧の良質の産地で、全国各地から杣人や日傭などが労働者として集りました。元々、木曽節は木曽川支流の大滝川を利用して材木を流送する時などに歌われた「木挽(こびき)き唄」でしたが、明治維新の頃、御嶽信者が「お座敷歌」として宴席に持ち込んだり、大正時代には福島町(現・木曽町)の町長であった伊東淳が地元振興の手段と尽力したことで広く日本じゅうに知れ渡ったようです。
遥拝所から拝する信仰の山
御嶽山は古来より信仰の山として尊崇され親しまれてきました。木曽や飛騨の山間に住む人々からは直接その姿を見る事が難しく、遥拝(ようはい)所を作って時折その姿を仰ぎ見、家内安全や豊作を祈ったとされています。遥拝所とは遠くへだたった所から拝む場所のことで、御嶽山周辺の多くの場所に遥拝所が作られました。木祖村と楢川村とを結ぶ鳥居峠、木曽福島の神戸、木曽福島と飛騨高山とを結ぶ地蔵峠、長野県と岐阜県との境にある長嶺峠、三岳村の御嶽神社里宮周辺など、御嶽山の全容を眺められる絶景のビューポイントに遥拝所を作って五穀豊穣を祈ってきました。
開山の歴史
木曽の麓の住民たちは、木曽の御嶽山を自然崇拝の対象として崇めてきましたが、霊峰・御嶽山の開山はいつ誰によるものか史実が無いため詳細は分りません。しかし、平安時代には熊野系の修験者も踏み入るようになって修験道の霊場として栄えていたと思われます。
伝説によると、聖徳太子と日本武尊が融合したものや大宝2年(西暦702年)に役行者小角 【えんのぎょうじゃおづぬ】が開山したとする伝承などがあります。
御嶽山の守護神は蔵王権現でした。蔵王権現は蔵王菩薩とも言い、修験道の開祖とされる役行者小角=役行者(えんのぎょうじゃ)が金峰山で衆生救済のために祈請して感得したと伝えられる主尊です。
鎌倉時代には修験道場としては衰退していったようですが、室町時代になると民間信仰と一体化し山岳信仰の霊場としてよみがえりました。室町時代の中期になると精進潔斎(しょうじんけっさい )を行った多くの人々が登拝するようになりました。
※精進潔斎とは肉食を断ち、行いを慎んで身を清めること。
精進潔斎には各種あり、本精進は3月3日から100日間、
湯道精進は4月8日から、合力精進・女精進は5月5日から精進に入り精進期間を経て登拝しました。登拝日は各精進とも共通で毎年一回、6月14日・15日と決まっています。
江戸時代に入ると木材の需要が高まり、御嶽山山麓のヒノキが高値で取引されるようになりました。密売を防ぐ為、本精進を除いて一般の登山者の入山が禁止となりました。
そんな中、御嶽山開放を行ったのは尾張の行者覚明(かくみょう)です。覚明は山麓の住民とともに御嶽山を管轄する神職武居家並びに尾張藩の山村代官に掛け合い、登拝許可の請願を行いましたが、その請願は却下されてしまいました。そこで、3年後の天明5年(西暦1785年)に神職武居家の登拝許可が無いまま軽精進での登拝を強行しました。次の年には村民とともに黒沢口からの登山道を整備しました。これにより、全国から登拝者が訪れ、近郷の村々にも経済的恩恵がもたらされるようになると、山村代官から軽精進での入山を認める内示が出され、入山料二百文を徴収することなど、六ヶ条からなる規定が作られました。
寛政4年(西暦1792年)には江戸の修験者普寛(ふかん)が、大滝口登山道を開きました。普寛行者は、武蔵国秩父王滝村の出身で、江戸に出て八丁堀法性院で修行した本山派修験で、後に木食僧となりました。彼は、関東一円に御嶽信仰の普及を図り、次第に御嶽教講社が全国に普及していくことになります。その中でも、秩父の両神山、上州の武尊山などを山岳霊場として隆盛に導いたことなどは彼の功績によるものと言えるでしょう。
こうしてこの2人の修験者の尽力によって御嶽山は信仰登山に限って一般登山者に開放されることになっていきます。幕末には全国各地に300を超える御嶽講が組織され、多くの人々が御嶽山に登ることになります。
明治維新とともに神仏分離令が発布され、御嶽蔵王権現が御嶽神社に改められ仏教色が消えていきます。明治15年に「御嶽教」が成立すると民間信仰が盛んになり、最近では三十万人を超える登拝者が訪れています。
近代アルピニズムの先駆けとなったのはイギリス人宣教師ウォルター・ウェストンです。彼は1891年(明治24年)黒沢口登山道の往復、1894年(明治27年)往路:黒沢口登山道、帰路:王滝口登山道の2回御嶽山の山頂に立っています。
黒沢口第十五番霊場、覚明堂に祀られている覚明行者像
参照:名山の日本史
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木曽御嶽山登山口までのアクセス(公共交通機関)
大滝口(田の原) | 【王滝村営バス】 夏運行 JR木曽福島駅〜田の原 登山バスをクリック (毎日3往復) 秋運行 JR木曽福島駅〜田の原 登山バスをクリック(土日のみ3往復) |
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濁河温泉 | 【おんたけ交通バス】 JR木曽福島駅〜濁河温泉 夏季運行(毎日2往復) |
御岳ロープウェイ | 【おんたけ交通バス】 JR木曽福島駅〜御岳ロープウェイ (季節運行 毎日3〜4往復) |
木曽御嶽山周辺の山小屋
田の原山荘 御嶽剣ヶ峰山荘 御嶽頂上山荘 ニノ池本館 八合目石室避難小屋 九合目石室避難小屋 三ノ池避難小屋 サイノ河原避難小屋
次はどこの山へ行こうかな。行きたい山がすぐに見つかる。
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